香港やイスラムや、ウクライナ…。
私はこの様な事が起きるといつも考えることがあって、それが「物理的な“強い力(ちから)” 」を持っているっていうのは本当の強さなの?ってこと。
辞書にはそのような意味合いが書かれているけれど、誰もが力の信奉者になってしまうと、それは最悪な世の中になると思う。
そこで、ここでは、「強さ」を求める人や力の信奉者にならないためには?についてご紹介します。
本当の強さとは
強い人、と聞いてどのような人をイメージしますか?
- 腕に自信のある人
- 力強く強敵を打ち倒していく人
- それらを少しも恐れない、ひょうひょうとしている人
- 自らの弱さを表明できる人
- 強く見せている人
- 自分を自分で守ることができる人
「強さ」について語る上で、こういう人をイメージするかと思います。
だけど、「相手をばったばったとなぎ倒しているけれど、あとに誰もついてこない人」、「勝手に危険視をして暴走する人」っていうのも、時に出てきます。
これは強いのか?
たとえば、ロシアは、様々な事に影響を与える力、核攻撃能力、資源力、電力…これらの力を持っているとはいるけれど、「あらゆる暴力を排除」して、「更に侵略する力」を欲しがっています。
でも、世界中で「すぐに侵略されちゃうだろう」って思っていた、ウクライナ大統領の逃げない姿勢、祖国を守り抜こうとする姿を見て、今になって「勇敢な人」、「立派な人だ」ってみんな思っているわけです。
それを見た、力のある国も、偉い人も、皆が救いの手を差し伸べています。
強く見せている人は強くない
弱いイヌほどよく吠える、などというけれど、強がっている人ほど、心の底に劣等感を抱えた弱い人だったりします。
たとえば、酒に飲まれ、ニコチン中毒になっている人ほど、攻撃的です。
そして、いつでもその気になれば、酒もタバコもやめられるさ、なんて思っている。
だから、実際は、酒をやめる強さも、自分を律する力も、身につけられていないともいえます。
無知の知という言葉がありますが、弱さも同じで、実は自分の弱さを認められない、知ることができないのは強くはないってこと。
それを知ることが、強さの始まりなのでしょう。
強さを手にするべき?力を信奉するべきではない理由
どこまでも強くなりたい…そう主張したい人は少なくないでしょう。
それが人間の自然な感情かもしれません。
だけど、力を信奉しすぎても、それは空回りする一方。
力を信奉するべき?っていうことについてご紹介します。
強さとは受け取れること
私が思う「強い人」は、他者の視点を受け取ることができること。
それは、自分の視点と違っていても一旦受け取る力で、相手を攻撃することがありません。
反対に誰かが自分の意見を言った時、自分の視点と違うとすぐ攻撃に出る人がいます。
「自分の意見を言えて強いな」と思う人もいるかもしれませんが、我が強いことと、人としての強さは、別物だと思います。
器の大きさ、というのは、自分の中にたくさんのものを受け入れられること。
それは、強さの一つでしょう。
強さとは見せるものではなく、滲み出るもの
自分は強いんだぞ、と言わんばかりの言動をとる人がいます。
「上司は自分」、「自分はこれだけすごいんだぞ」みたいな発言も、これに似ています。
強さを見せる必要がある、ということは、そうしなければ自分は強くないし、どこかで自分の弱さに気付いていて、それを隠したい。
凛とした内面の強さというのは、アピールしなくても、そこはかとなく滲み出るもの。
自分の強さを一生懸命アピールしている人ほど、実はとても弱いのです。
強さとはしなやかさ
最後に生き残るのは、最も強く賢いものではなく、最も上手く変化に適応したものである。
“It is not the strongest or the most intelligent who will survive but those who can best manage change.” (Charles Darwin)
ダイヤモンドは、傷がつきにくくこの世界で一番硬い物資のひとつです。
だけど、そんなダイヤモンドも、ハンマーで叩くといとも簡単に砕けてしまうのです。
強さは、ある一面を切り取ったものに過ぎず、しなやかでなければ、とある衝撃で崩れてしまいます。
「強い人」と言われると、自分を頑なに曲げない人を想像するかもしれません。
だけど、実は環境に合わせて自分を変化させていったり、しなやかに生き抜くことが出来る人のほうが、実は強い人だっていうことです。
強さとは弱さを持たないことではない
最近、私は欧米の人の思想を知りたいな…と思って、聖書を読んでいるんですが、聖書にはこんな章があります。
主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 (コリント人への第2の手紙 12.9~10)
要するに、強さとは、弱さを持たないことではないようです。
人間の弱さって、暗いイメージがつきまといます。
私たちもつい自分のしてしまった失敗だったり、自分の欠点や弱さを思うと,自己嫌悪します。
だけど、聖書では、こうした人間の弱さに光を見出しています。
はっきりと「弱さを誇りましょう」とまでいっています。
聖書は強い人間を対象に書かれたものではなく、人間は弱さをもっているということを前提として書かれています。
人間のもつ弱さというものは,マイナスの側面しか持っていないわけでもなく、弱さは排除すべきものではありません。
弱さを持つ人は、人間が他人を必要としていることを教えてくれます。
私たちは自分が弱っているとき、助けてほしくなります。
私たちはこうしたことを体験することによって謙虚になっていくことができます。
「弱さ」を併せ持って、それを誇れることは、この世界を生きていく上で、とても価値のある強さのひとつであるように思います。
強さとはきっと総合的なもの
強さとは、技術や、地位や、名誉、格闘する力だけでしょうか?
実は、それだけではなく、「自分の弱さを知っていること」、「己の力を見極められること」も大事。
そして、今の世の中、情報力や、経済力、器…。強さとは弱さを含めた「総合力」です♡
だから、弱いことで、希望を失う必要はありません。
だからこそ、いたわりあい、愛し合い、助け合えるからです。
弱さの中に強さがあることを知ると、それを時々武器にできることに気づきます。
それが、心理的に健康な人間です。
それを知っておくと、本当に強さを持っているのは、だれか?っていうことが見えてくるでしょう。
まとめ
現代社会は、強さやパワーへの執着傾向は根強く、弱さに冷ややかです。
強くなければならないという「眼差し」で苦しんでいませんか。
強くありたい、力を付けたいという想いは自然の感情かもしれません。
だけど、それは、無限の渇望で、破滅してしまうのではないかと思うのです。
そういう力だけで生きていくことができないし、私たち人間は、共通に弱くもろい器です。
弱さを認めるというのは、生きていくうえでとても大切なことです。
弱さを認めて対処するのは、敗北ではなく、むしろ圧倒的な勝利だと思います。