何の苦しみもなくすべてに充足した快適な場所、それを私たちは楽園と呼びます。
人は、幸福で満ち足りた楽園のような場所に行きたいと思っているし、マッサージを受けたり、温泉に浸かったりした時「天国」だって感じます。
天国にいて飽きるってことはあるのでしょうか?
そもそも、人にとって、そんな天国は本当に天国であり続けるのか?って言うことについてここでは考えてみました。
楽園とは。天国のイメージのルーツ
人は、「楽園」のイメージを誰しもが持っていて、そこで暮らしたいだとか、過ごしたい、という希望を心に抱いています。
そんな楽園について、宗教学者のミルチャ・エリアーデは、『神話と夢想と秘儀』(岡三郎訳・国文社)のなかで、このように述べています。
人々はまったく労働しなかったが、豊富な食糧が手のとどくところに見つかった。多かれ少なかれ複雑な形をかりて楽園神話は世界のほとんど至るところに見出される。その最も顕著な楽園的な基調は「不死性」であるとする。
楽園のイメージとは、「豊富な食料が手の届くところにあり」、「全く労働しなくてもよく」、「不死生」も兼ね揃えていること。
つまりは、永遠に続く快楽のイメージです。
原始宗教とキリスト教においても、楽園について述べられています。
それは、人類の宗教史の始まりから、全く同じ楽園へのノスタルジアを見いだしていることを示します。
楽園への憧れは、人類共通の普遍的で無意識的な願望なのです。
楽園は常に飽きる…天国は天国であり続けないってこと
でも、楽園が楽園であり続けることはなく、所詮はイメージの中にしか存在しません。
なぜなら、楽園には、「飽き」が来てしまうから。
最終的に、楽園は楽園ではなくなってしまうと私は思います。
ではその理由を見ていきたいと思います。
すべての幸せには飽きが来る
楽園にいれば、ずっと幸せで居続けられるのか?
それは絶対にありえません。
なぜなら、楽園にも、飽きが来るからです。
温泉が幸せ、マッサージが幸せ…じゃあ、マッサージを受け続けたり温泉に永遠に浸かってられる場所が天国なのか?
温泉に永遠に浸かってたらのぼせるし、マッサージを永遠に受けてたら「もういいや、他のことしたい」ってなると思う。
好きな食べ物が無限に用意されていて、好きな映画や、娯楽が存分に用意されてて、ずっとお昼寝していられるみたいな場所が天国だとしたら?
それだとしても、やっぱり永遠にいると、「もういいよ」ってなっちゃう。
いくら大事な人がそばにいて、その人とドキドキ毎日一緒に過ごすことができたとしても、それが日常になると感情も変化してきます。
人の感情には、必ず変化が生まれるもので、それは、すなわち「楽園状態」が永遠ではないことを、意味しています。
労働や苦しみを体験してこそ「楽園」の安穏さが感じられるから
たまに嫌なことが起こったり予想もしない事が起きる…それが現世です。
自然があらゆるものを恵んでくれる天国では、労働も悩みも苦痛も存在しません。
だけど、楽園が楽園である、「安穏さ」は、善と悪、対立を知っているからこそ、生まれるもの。
楽園の幸せを感じるためには、それと対をなす現実生活の懊悩労苦を知っていなければならない。
楽園に居続けると、現実世界での苦労が失われる。
それは、幸せに対して鈍感になることを意味しているし、次第に、快楽をも感じられなくなるでしょう。
自我が芽生えれば楽園は楽園ではないから
心理学的に言えば、楽園のイメージは乳児の前意識的な状態だって言われています。
そこでは、「自我」はまだ、機能していません。
「自我の発生と共に楽園状況は終わる」って言われています。
楽園というのは、いわば、より大きな、より抱擁力のあるものが生命を司っている状況です。
つまり、楽園とはその母体に頼ることを自然とするイメージです。
宗教的に言えば、楽園にいる状態とは、すべてが神みずからによって導かれている状態で、自我がない。
労働も悩みも苦痛もまだ存在しない世界では、自我がいらない。
でも、人は成長し、おとなになりたいと願います。
自我が発達すれば、次の段階では、楽園からの「自立」を求めるようになります。
楽園は所詮イメージでしかない
楽園とは、何もしなくて良い世界、自我がいらず、「楽」が続く世界…。
人の心の中には、楽園的イメージは必ず存在しています。
ですが、楽園には必ず終わりがあります。
どんな楽園にも「飽き」が来て、どんな状況にも「惰性」が生まれる…。
人間には必ず自我があるからです。
だから、楽園は、イメージでしかない。
人は、「自然界」に守られている状態で、満足できません。
私達は、自分達が働いて稼いだお金がどの様に、何処かの誰かの為に使われ、その人がどうなったのかを見届けたい。
人には、欲があります。
実行中の事を成功させたい、独り立ちしたい、という欲。
そのための、資金や人材、後ろ盾を、築きたくなるのです。
幸せの基準は人それぞれ。
だけど、誰が誰と一緒になろうと、他に依って生きることに我慢し続けられない。
他の光によって輝いていたとしても、そこに飽きが生まれてしまう。
だからこそ、刺激を受けながら、泣いたり、笑ったりしながらも、一つの場所に甘んじないこと。
自分の足で歩き、たくさんの選択肢を作り、居場所を替えていくこと。
それが幸せになるための近道なんです♡
まとめ
私達は、イメージに楽園の思想の遺伝子を持っています。
呑気に寝ていたい、何も縛られずに、ずーっと誰かと笑顔でまったりしていたい…。
でも、どんな楽園も「飽き」が来て、そこは楽園ではなくなります。
幸せになるためには、ときに、刺激も、苦しみも、悩みも必要なんですよね。
それもたっぷり含まれた、現世でときに幸せを感じることが大事です♡