
皆さんは、人の悪口を言う人、言うことに対して、抵抗はないだろうか。
世間では「人の悪口は言ってはいけない」という綺麗事が蔓延しているが、私は全くそうは思わない。
むしろ、言うべきであると断言する。
なぜなら、私が言う悪口とは感情の爆発や、八つ当たりではなく、事実に基づく冷静な「評価」だからだ。
本記事では、私が人をボロクソにいう理由と、それを口にすることがもたらすメリットについて解説する。
私が人の悪口をボロカスに言う理由

私は中国・タイ人の血を引く海商・海洋ルーツのクォーターだ。
私は、相手がその人物をどう考えていようが、一切関係なく、人をボロカスに指摘して、評価をする。
多くの人間は「なんでそこまで言うの?」と時には憤慨し、私に対して、なんとか評価を得ようとしたり、あらゆる汚い感情を露呈させてくる。
だが、私が人の欠点や至らない点をボロカスに指摘するのには、明確な根拠が存在する。
それは性格が悪いからではなく、確固たる文化的背景と合理的な視点に基づいたものであるという理由を紹介しよう。
中国文化が教える「人への評価」の当たり前さ
これらの文化圏では、人の言動を観察し、シビアに評価を下すのは至極当たり前の概念であり、日常風景である。
日本人のように、その場の雰囲気や、「でもこういっていた」「でも自分にはこうだから」と言動でふんわり包むことはしない。
相手がどういう人間かを、能力、IQまで含めシビアにジャッジし、相手がどうであろうが、評価を覆さない核が中国人にはあり、私の根本に根付いているのだ。
同調と「良い所探し」への違和感

日本人が悪口を避けるのは、波風を立てないことを善とする「集団文化」が原因である。
何かにつけて「良いところがあるから」と擁護しようとするが、それは相手を見る視点に著しく欠ける上、現実逃避に過ぎない。
中国人には、そもそも、表面的な同調圧力に屈する回路がなく、迎合することがないのだ。
感情論ではない純粋な「正当評価」
特に中国ルーツの人間は、評価をする時に、感情と事実を交えない。
私が、相手をボロクソに言う時にも、そこに個人的な憎悪やドロドロとした感情は一切入っていない。
あるのは、事実に基づいた「正当評価」と、けして自分に侵入させない「境界線」のみである。
ダメなものはダメ、使えないものは使えないと切り捨てる。
ただそれだけの客観的で冷静な分析なのだ。
評価の強要は無用。最初から「別々の道」

勘違いしないでほしいのだが、私が特定の人物に最低評価を下したからといって「お前も最低評価をつけろ」と強要することは決してない。
他人が、その相手に最高評価をつけるのは、一向に構わない。
それが自立した中国人の考え方である。
なのに、日本人はなぜか互いの妥協点を探る「意見をこすり合わせる」という謎のコミュニケーションを取り始めるから呆れてしまう。
だが、私は最低評価、お前は最高評価、なら互いに全く合わないのだから「ここで決別」だ。
ただそれだけのシンプルな事実が、彼らには理解できないのである。
人をボロカスに言ってもいい理由

では、なぜ心に秘めるだけでなく、悪口(正当評価)をあえて口に出すべきなのか?
それは、自分自身の人生を快適にし、クズを排除するための最強のフィルターとなるからである。
ここでは、人をボロカスに言うべきである根拠を述べていく。
明確な「境界線」を引ける
相手のダメな部分を言葉にし、明確な「境界線」を引くことは生存戦略だ。
私のルーツは中国由来だと述べたが、中国の海商(海を渡る商人)たちというのは、歴史背景的にも、問題のある人物を早期に切り捨てなければ、後の航海で致命的なトラブルにつながることを熟知している。
悪口やシビアな評価とは、危険人物をいち早く排除し、自分や組織を守るための強力な防壁なのだ。
反応で決まる今後の「進路決定」

第三者を目の前で、ボロクソに言った時の「相手の反応」は最大のテストになる。
日本人はここで相手の顔色を窺い、同調したり、その場の空気を良くしようとしがちだ。
しかし、中国人は全く違い、ここで徹底的に人間関係を切り分けるのである。
リトマス試験紙によって「合う・合わない」を明確化し、情に流されない。
受け入れるのか?矯正しようとするのか?反論するのか?要は「私は判定済みだ。お前はどう判定する?」「私を見よ。己はまともな判定ができるのか?」というメッセージだ。
ボロクソに悪口を言った瞬間とは、それを聞いた人物の核そのものが露出する瞬間なのだ。
そして、私はその瞬間を見逃さない。
海商は、まともな判断ができない人間と航路を共にいくことはないのだ。
違和感は必ず肥大化する
「でも良いところもあるから…」と妥協するのは大きな間違いである。
今目を瞑っている不穏な欠点は、時間が経てば必ず露呈する。
人間は、本性を永遠に隠し通せない構造だからだ。
慣れや、状況が変わった時に、抑え込んでいた素が爆発し、隠していた「本性」が増長しボロを出す。
これは、避けられない真理であり、初期の違和感は氷山の一角に過ぎない。
悪口(正当評価)とは、微小な長所で致命的な短所をごまかさない、事実を直視するための技なのだ。
私はこの評価と決断を、その人物を見た、かなりの初期段階で切り出しているだけだ。
評価と悪口の混同は愚の骨頂。絶対的ジャッジメントの真髄

「評価」と「悪口」を混同するのは、滑稽だ。
感情とジャッジメントを切り離せる論理的な思考回路を持たない限り、悪口に対して冷静に判断することはできないだろう。
私のジャッジは、世界一ともいえるほど、「クズを見分ける力」を持つ中国海商の歴史に裏打ちされている。
村社会の人間とは違い、外洋の商人たちは1秒でクズを見抜き、交易を断たねば生存できなかった。
この選別眼は、私の評価の揺るぎない根拠だ。
だから、誰に何を言われようが自分の判定や評価は変わらない。
再評価?再判定?ありえない。
悪口ではないから、評価は変わらない。
簡単なことだ。
あなたたちに、これほどまでの強い、選択眼があるだろうか?
どちらにせよ、言わなければ永遠に分からないし、口に出さなければ届かない。
悪口だと罵られようが、あなたの冷静な評価は、敵(クズ)の侵入を防ぐ、最強の道具なのだ。
まとめ

あなた方も、中国人の合理的な視点のように相手を厳しくジャッジすることは、決して悪いことではない。
都度、断罪し、広い世界を自分の足で航海しようじゃないか❤
後から変わらない、判定と評価を。
悪口ではない、正当な断罪を。
揺るぎない事実に基づく冷静な「正当評価」こそが、クズを退ける輝かしい自分の航路の道標なのだ。
