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性善説と性悪説、どっちが正しいの?使い分けをして上手に生きるためには
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性善説とは、「人間は生まれながらに善」というY理論に基づく方式。

この考え方は日本で生まれた小集団活動を大きく進めた考え方です。

「しかし、生きていく上で、全てが性善説だけで取り仕切れるの?」という話が、出てきています。

性善説と性悪説は真逆の思想。

では、果たしてどちらが正しいの?

そこで、性善説と性悪説、どちらの考え方で生きていくことがいいの?ということについてご紹介したいと思います。

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性善説と性悪説の違いとは?

性善説と性悪説。

これは考え方の事です。

人間には『元々人間は善である』と言う考えと、『元々人間は悪である』という考え。

人間の本性はであり、成長するうちに悪をしってしまう。これが「性善説」。

一方、人の本性はで、生きていくなかで善を学ぶという考え方が「性悪説」です。

二つの考え方が交錯して、考え方がブレそうになったりしていませんか?

詳しく見ていきたいと思います。

性善説とは

性善説の「性」とは「人の本質」、「善」とは「道徳的に正しいこと」を指しています。

人間の本性は基本的に善であるという説。

こちらの説は、孟子の儒教の教えが由来すると言われています。

内容としては以下になります。

  • 惻隠:他者の苦境を見過ごせない憐れむ心 ⇒発展して「仁の心」
  • 羞悪:不正を羞恥する心         ⇒発展して「義の心」
  • 辞譲:謙譲の心             ⇒発展して「礼の心」
  • 是非:善悪を分別する心         ⇒発展して「智の心」

意味としては、人の本質は確かに道徳的に正しいという意味があります。

しかし、その本来持っている「道徳的な正しさ」は努力によってより磨く必要があるということです。

つまり、道で信号が渡れないで困っているお年寄りを助ける若者、人が見ていないところでも自分のやろうとする悪事を顧みて思いとどまる姿が本来の姿である、という考え方を言います。

性悪説とは

性悪説は、性善説に反して荀子が唱えた、人間の本性は欲望に弱いというのが根本的な考え方です。

つまり、人間は、もともと悪の心を持っていて、欲望に流されやすい生き物だけれど、後天的な教育や努力により、公共的な善を知り礼儀や考え方を正せるという教えのようです。

つまり努力次第で善になれるという事。

性悪説では、人をまるで信頼していません。

私たちは少し賢くなっただけのサルであるということを認めなければならない、だから社会をより良くするための概念が必要だということです。

性善説と性悪説とどちらが正しいの?使い分けは可能か

私は基本的に人間は基本的に、欲望に弱く、努力しなければ悪に傾いてしまうもので、性悪説が正しいと考えてます。

これからの時代、性善説、性悪説のどちらがどれだけ正しく、どちらを採用すれば、うまく生きられるのでしょうか?

性悪説をベースにすると上手くいく

まず性悪説をベースとした社会で考えてみると、誰も政治家のことを信じません。

確かに、「正しい政治家がいない」という前提のもとで選挙を行うと、有権者はひとりの人間に権力が集中しないようにするでしょう。

他にも、性悪説ベースなら…「彼らは自分の野望のために国家を利用する、貪欲な人間である」という認識を持ったり、友達に関しても「彼らはいつ裏切るかわからない」と考えることになるため、いわば、隙がなくなるということ。

国にも周りにも、彼らに必要以上に期待しない、という理論でいくのでがっかりしなくなります。

また、人の「悪事」や、著名人のスキャンダルに一喜一憂しなくなるということです。

私たちは、才能を持った人たちの不祥事に対して、少なからずショックを受けるし、何かあれば、すぐに叩こうとします。

スキャンダルを起こした有名人が誹謗中傷に遭い、仕事を失うということもありますが、性悪説をとれば「人間だから仕方ない」、と許されるようになります。

要するに「性悪説」ベースということは、人間は完全な生き物ではないと考えること。

したがって、許し、許される社会になることを意味します。

だから、教育システムはより整備されたものになるし、違いを認められるんじゃないでしょうか?

精神的な教育に重きを置ける

現在は、学問や技術的なスキルを身につける場所として教育機関があります。

そして、精神的な教育や、心の磨き方に重きをおいていません。

これはなぜか?

戦後から、ずっと日本では、人間は生まれながらに善というY理論に基づく方式でやってきたからです。

でも、性悪説の社会では、理性的に行動するにはどのようにすればいいのかという、精神的な教育に重きが置かれるはずです。

未熟な人間が心地よく暮らすためにはどうすればいいか?

性悪説の社会では、人は未熟であると言うことが共通認識となるので、共同体として誰もが気持ち良く生きるにはどうするのが賢明か考えるようになります。

犯罪が起こりそうな要素をあらかじめ排除できる

性悪説をベースとした社会になれば、犯罪が起こりそうな要素はあらかじめ排除されていきます。

性善説の世界では、人は「生まれながらにして、善であり、成功し幸せになるものだ」という認識があります。

ですが、その方式で行くと、全員が成功するわけではないので、社会そのものに格差が生まれます。

失敗や未熟さ、犯罪が起こりそうな要素が不安視されないので、大事件が起きたときに、混乱が起きることになります。

一方で性悪説の世界では、「人間はその未熟さ故に失敗する」という根底的な考えがあるため、犯罪が起こりそうな要素を極力減らすことが出来、リスクに応じた社会を作ることが出来ます。

性善説・性悪説のゴールは同じ

冒頭に書いたどちらが正しいかということに関してですが、学校教育は人間は生まれながらに善という考えで行われています。

しかし、今社会全体が、性善説だけで取り仕切れるの?という問題が出てきています。

どのような状況でも「誠心誠意」尽くしても、報われないこともあります。

政治家を信じたところで、「心から国を良くしたい」という言葉を述べますが、それらは基本的に、全てウソ。

正しい人間がいない、と言う前提のもとで動くと誰しもが信じられなくなる。

だけど、令和は、性善説だけでは、世の中生きていけないのです。

若い人に温情や保護は大切。

しかし、過保護で出来損なった人を面倒みるほど、今の社会も、世の中も暇ではないです。

どちらにしても「道徳心」と、「人に迷惑をかけない」って点は共通して成長していかないと生きていけないでしょう。

だけど、性悪説=人に絶望した考え方ではありません。

むしろ性悪説を基準とした社会の方が、思慮深く安定した世界になる可能性が高いと言えます。

まとめ

私たちが暮らしている世界は、お金によって人の価値が決められています。

なのに、今の世の中、性善説を唱えてきた教育を受けているので、人間は悪い部分を持っている、と言う部分に目を向けようとしないって私は思う。

したがって、ある程度、人に期待しない、そして犯罪に向けて、リスクを防止するための行動をすることのほうが大事かもしれないです。

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